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大阪簡易裁判所 平成5年(ハ)8964号 判決

原告

医療法人北錦会

右代表者理事長

矢野昭三

被告

大橋政重

右訴訟代理人弁護士

竹下政行

大槻和夫

丸山哲男

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告は原告に対し、金四〇万円及びこれに対する平成五年七月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

(原告は当初、一次的には後記目録記載の看護婦免許証との引換えの支払を請求し、追加的に単純の支払を請求していたが、最終準備書面で一次的請求を撤回し、単純支払請求のみに訴えを変更したものと認める。)

第二事案の概要

一  争いのない事実(一部証拠による認定事実を含む。)

1  原告は、大阪府柏原市(住所…略)の大和川病院(精神病院)、大阪市内所在の大阪円生病院を経営する医療法人である。

被告は、右柏原市所在の国分病院、大阪府八尾市所在の山本病院などの精神病院に約三〇年間の勤務歴をもつ後記目録記載の免許を有する正看護婦である。

2  被告は、平成四年一〇月二一日、原告と別紙(一)及び(二)(〈証拠略〉)記載のとおりの契約を締結し、同月二六日から大和川病院にパート看護婦として勤務した。

3  右契約当日、同契約に基づき、原告は被告に対し、契約金の名目で金四〇万円を交付し、また、被告は原告に対し、被告の前記看護婦免許証を預け入れた。

4  被告は、平成五年六月二日、同病院事務職員に翌日付け退職願い(〈証拠略〉)を提出して退職を申し出たうえ、翌日から出勤を止めた。

原告は、被告の慰留、復職を求めて同人に種々働きかけたが、被告がこれに応じなかったため、結局右同日付けで被告を退職扱いとした。

5  原告保管の本件看護婦免許証は、被告がその返還を求める反訴で認容判決を得たことにより、結局原告から被告に返還された。

二  原告の主張

1  本件パート契約(〈証拠略〉)は労働契約(〈証拠略〉)とは別個の付加的な契約であり、同契約にかかる本件契約金は、約定の契約期間二年の満了時まで勤続した場合には報償金に引き当てる条件で原告が被告に預託又は貸与(無利息)した金員であり、約定期間満了前に解除(退職)した場合には即時原告に返還する約束であった。

2  よって、原告は被告に対し、契約に基づき、本件契約金の返還と遅延損害金の支払を求める。

三  被告の主張

1  本件契約金は賃金であり、本来返還を要しない金員である。

何故ならば、原告は、〈1〉大和川病院の看護婦募集広告に支度金を支給する旨を記載しており、また、〈2〉本件契約金を労務提供の対価として経理上源泉徴収の処理もしており、〈3〉被告の月々の給与支給額は看護婦に対する標準的な支給額に比較して低廉であり、就労準備金としての一時的支給金にほかならず、また、低廉な給与を補う実質的賃金である。

2  次の理由により、被告は本件契約金の返還義務を負わない。

(一) (証拠略)の契約は一体としての労働契約であり、パート契約証書に定める二年間の勤務期間満了前の退職(労働契約の不履行)を理由とする契約金の返還及びその二割の金額を原告に支払うとの約定は、契約金は1主張のとおり本来返還を要しない給付金であるから全体として違約金又は損害賠償額の予定であり、労基法一六条に違反し、無効である。

(二) 右契約金の返還契約は、「労働者の精神または身体の自由を不当に拘束する手段」であり、労基法五条及び一七条又はその趣旨に違反し、無効である。

(三) 被告ら看護職員の退職に当たり、原告は、契約金の返還・違約金の支払を求め、看護婦免許証を返還せず、両者の引換え処理を主張するなどし、本件契約金をその足止め策に利用しているものであり、本件契約金の返還約束は公序良俗に違反し、無効である(民法九〇条)。

(四) 給付された契約金は不法原因給付であり(民法七〇八条)、原告は返還を請求できない。

四  争点

1  本件契約金は、賃金か。

2  本件契約金の返還約束は、有効か、無効か。

3  本件契約金の給付は、不法原因給付か。

第三争点に対する判断

一  争点1について

1  本件契約金は、契約期間の勤続を条件として給付された金員であり、被告主張1の〈1〉ないし〈3〉の事実を認めることはできるが、それ故にこれを実質的賃金であると断定するには至らない。

反面、これを勤務期間満了時に報償金に引き当てることを条件とした預託金又は貸金と解することもできない。

すなわち、本件契約金については、約定期間満了前に退職した場合には返還するとの約定以外には約定がなく、その交付の原因・目的、約定期間満了時における返還の要否、返還方法等が明らかにされておらず、被告にその必要があって同人自らがその交付を申し入れたものでもなく、かえって不要とした被告に対して安田院長が『持っていて邪魔にならない。二年したら更新すればよい。』旨を述べ、原告側の内部施策(被告に限らず看護職員の大部分が本件同様の契約をしており、その契約書は定型化されているなど、原告及び安田病院が一般的な施策としているものと認められる。)に従って機械的に契約・給付されたものであり、特定の目的及び返還約束を含むべき通常の預託金又は貸金(いわゆる前借金)とは解されないからである。

もっとも、この点について、原告は勤続期間満了時の報償金に引き当てるための給付金であり、預託又は貸与するものであることを口頭で説明したと主張し、(人証略)はこれに副う証言をするが、(人証略)、被告供述に照らして信用できず、原告側で、契約期間を勤続すれば返還しなくてもよい旨及び途中退職の場合には返還すべき旨を告げ、小西事務長がパート契約証書をひととおり読み聞かせたに過ぎないと認められる(〈人証略〉)。

2  そうすると、本件契約金の返還約束を預託金又は貸金の返還約束とする原告の主張は理由がない。

二  争点2、3について

1  本件契約金の中途退職の場合における返還約束(〈証拠略〉)は、およそ次の理由で無効である。

(一) 本件労働契約書及びパート契約証書(〈証拠略〉)は、同一場所(安田病院)で、同時間帯、同関係人(被告、安田病院院長安田基隆、原告法人事務長小西三郎)間で作成されており、全一体としての労働契約であると認められる。

ところで同契約では、当初三か月間及び退職申出後一か月間の退職制限はあるものの、途中退職の禁止は明示しておらず、雇用期間についても一応一年間として更新できるものとし、その上で二年間の勤続を条件に本件契約金を支給するものとしており、その限りで形式的には労基法五条、一四条に違反していないものといえる。

しかしながら、本件パート契約では、二年内の被告の中途退職を契約不履行としており、本件契約金の返還のほか、その二割相当額を違約金として原告に支払う旨の約束がされており、右約束は実質的には被告に二年間の労働期間を約束させたものであり、労基法一四条に違反する労働期間の合意であると理解され、かつ、違約金を定めた点で同法一六条違反の契約である。

(二) 労基法五条が定める「労働者の精神または身体の自由を拘束する手段」とは精神の作用又は身体の行動を何らかの形で妨げられる状態を生じさせる方法をいい、「不当」とは社会通念上是認しがたい程度の手段と解されている。

ところで、本件契約では看護婦免許証を原告に預けることが約束されており、本件契約金の返還及び違約金の支払約束と一体となって被告の退職意思に威圧的効果を生じ、被告の足止め策に利用されていたものと認めることができる。

このことは、被告の退職時に、本件契約金等の返還と看護婦免許証の引換え交付を理由に退職の撤回ないし復職を執拗に企図し、また、大和川病院の実権者と認められる安田基隆経営の安田病院における笠置静子準看護婦の退職時や南部富喜子の大和川病院退職の際の契約金、看護婦免許証等の返還を巡る紛争など、(人証略)、被告供述等により明白である。

そして右事実は、説示の「不当な拘束手段」に該当するものと解され、本件契約金の返還及び違約金の支払約束、看護婦免許証預け入れの約束は一体として労基法五条に違反する契約であるといえる。

(三) さらに、(人証略)によれば、大和川病院では恒常的に看護職員数が少なく、被告勤務のB2病棟では入院患者約六〇人に三人の割合の看護婦数であり、国分病院、山本病院などの患者三~四人に一人の割合の看護婦数に較べて極端に少なく、また、宿直明けの休暇を認めず、不当な賃金カットが行われるなど、看護婦の労働実態は劣悪といわねばならず、それだけに原告及びこれに深く関わる安田病院では看護職員の退職届けを容易に受理せず、退職意思の強固な者に対しては契約金の返還のないことを取り込み詐欺と決めつけて刑事告訴を仄めかす(〈証拠略〉)などして暗に継続勤務又は復職を迫り、弁護士代理人による交渉をかたくなに拒んで本人の翻意を図るなどの事実が認められ、右事実に鑑みると、本件契約金の給付が契約期間を継続した者に対する優遇処置となる一面を有することは否定できないが、その主な目的は看護婦等の雇用確保と退職阻止のための足枷をはめることにあると認められ、原告の本件契約金給付の施策は社会的、法的に是認できず、それ自体もはや公序良俗に違反するものと考える。

2  次に、被告の本件契約金の取得を不当利得として原告にその返還請求を許すことは、支度金支給を雇用応募の好条件として広告し(〈証拠・人証略〉)、実際の雇用に当たっては自由な退職を事実上阻害する契約金の返還約束を取り付けるなどする労基法の法意に違反し、公序良俗違反といえる原告の施策を法的に是認し、これに手を貸す結果となるものであり、当裁判所としては是認できないところである。

結局、本件契約金の交付は、原告の不法原因給付に当たるものと判断する。

三  (結論)以上により、原告の本訴請求は理由がなく、棄却することとする。

(裁判官 鍜治勲)

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